About Documentary Dream Center

 
/川部良太
 
3月のあの時期のことを思い返すと、本当に自分の中にまだ整理がつかないたくさんの感覚や問いがあって(それは今後もずっと考えつづけていくことだと思うのですが)、言葉があっちにいったりこっちにいったりして、なかなか思うようにかたちになりません。
 
ただ道場のことを考えることは、震災以後の自分の感覚や思考の形成にとても強力に結びついているように感じています。
ものすごく単純に言えば、あの時期に雲南にいるということで、自分のこれまでの人生において、あんなに「いま東京にいない」ということを感じながら過ごした日々もなかったように思います。
滞在中、部屋に帰ってテレビをつけるたび、そこでは、震災を含む福島の原発事故、リビアの内戦、中国サッカー界の審判のイカサマ事件、中国の地方都市で起きた工場の事故のニュースとが、だいたい同じ程度に放送されていて、そこにもまた東京との距離を感じながら、自分がある種の混乱した心境や深刻な事態から一時的に離れることができていることの安堵と少しのうしろめたさ、そして今東京にいたら何を感じていただろうかという想像とともに、東京にいないということを感じていたように思います。
 
そしてこのことは、いま東京で過ごす日々の中で、自分は、いまバンコクにいない、ということや、昆明や大理にいない、ということをどれだけ感じているだろうかという問いと接続しているように感じています。(ここでの地名はある種の比喩でもあって、離れている場所・事象、多くの目に見えてこないことや聞こえてこないこととも繋がる問いだと思うのですが。)
 
自分が今いる「ここ/雲南」という場所を感じることと、今いない「よそ/東京」のことを感じることとが、本当に不思議に同居した日々だった、と書くとなんだか単純ですが、そんな風にどこにいても、「いま・ここ」での生活を感じながら、どこかと接続していることを感じつづけられるような、そんな身体感覚なのか思考や感受の方法なのか、を見つけていきたいなと改めて思っているところです。
 
きっとこの時、たとえばどこかの場所のことを考える時に、そこにいる友人のことやその友人との記憶とともにそのことを考えられるというのは、自分にとって新たな感覚で、人と人の小さな連帯や想像力の交差はここに生まれるのではないか!?と、密かに思ったりしているところでもあります。
離れつつ、人と人がどう共にいられるか、その時それはコミュニティと言えるのか、言えるとしたらどのような感覚を伴ったかたちなのか、この問題も、自分にとって今本当に重要な問いになりつつあります。

また、道場のことを思い返すたびに、今もよく、ふと、あの大理の湖岸沿いにある公園で撮影させてもらった少年たちのうちの、最後まで残った一人の少年が、別れ際の一瞬、声をかけた自分に向けた鋭い目のことを思い出します。

 
自分たちがあそこで撮った時間のこと、そこで行った編集が(編集の際にそのことを話せなかったことが少し悔やまれるのですが)、一体なんだったのかを、単なる撮るということの暴力性についてのよく言われるような撮影者のエクスキューズや、「作家として」の自意識過剰な感傷のような枠に納めることなく、感じ続けたいとも思っています。
 
また、タイのフィルムアーカイブの会議室で、大理のゲストハウスのロビーで、皆でひたすら撮った素材を何度も見返す時間のことも思い出します。編集点を見つけるため、あるいは自分たちが何を撮ったのかをちゃんと見い出すために、皆で1つの画面を見つめるあの時間は、もちろん、ワークの時間配分の中でもっと時間に余裕があれば、作品の完成度を目指すようなかたちに意識を強くもっていかれることなく、まずは何が写っているのか、それを見て自分はどう感じたのか、新たに何か気付いたことはないか、撮影の時は何をどう感じながらそこにいたのかなど、いろんなことを話しながら、何かを発見するための時間にもっとなったのではないかと思いつつ、それでもやはり、あの時間の、メンバーのギラギラした目には、なんだか勇気をもらったようにも思うのです。
 
 

 

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