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声音(おと)の政治
/毛晨雨(マオ・チェンユ)
 
夜中に窓辺を立つと、賑わいの中から悠然と歌う九官鳥の鳴き声が聞こえてきた。上海はますます混雑してきた。私の故郷である湖南省洞庭湖地域は歴史にも希な干ばつに見舞われた。湖水が乾き、水田が亀裂する。広い面積の天災と被災者の憤慨は段々政治倫理的な「人禍」と解釈されるようになる。比較的自由であるインターネットは怒りの檄文でいっぱいになり、たみぐさを救済する抱負を持ちながら、人々は西洋憲政と普遍的価値観の医療効果を声を嗄らしてまで叫ぶ。私はというと、これらの叫び声を好まないことが明らかであり、依然として田園に対し強い渇望をもつのである。
 
曖曖たり遠人の村  依依たり墟里の煙
狗は吠ゆ深巷の中 鶏は鳴く桑樹の巓
鬱鬱として荒山の里  猿声は閑且つ哀しい
悲風は静かな夜を愛し 林の鳥は朝開けを好む
 
陶潜の田園詩は美しく、静寂な田舎生活を描いたが、彼の創作行為は、晋と宋が交替する歴史的変動の中における心痛してやまない状態における、プライベートな生活の側面の光景である。現在われわれの中国農村社会はもうこわれ果て、どこもがその強烈な叫びを証明し、どこもが身体化した抗争と血なまぐさい暴虐に満ちている。川も枯れる傾向があり、どうやって再び田園に帰る?私の年齢では世界を救済する豪言を叫ぶ必要はないが、田園に帰ることを考える前に責任を担わなけばならないようだ。
 
今年三月、雲南省昆明市にて中国ドキュメンタリー映画作者たちは「中国経験」について討論を展開させたが、個人作品紹介会に類似し、公共的な集団としての意見及び意見共同体を形成する可能性には及ばなかった。私たちが総括すべき経験の核心は製作分野がいかにして切実且つ有効的にこの救われない社会に入り、社会文化のルートに深入りし、作品の慣習から離脱し、芸術展示性格的なパフォーマンスを除き、着実に観察と記録をすることだ。西洋映画祭評論をコンテクストにして構築した中国インディペンデント映画の言語システム、それ自身にはキッチュさといじくりまわした西洋化に満ちている。映画作品の演技性をきれいに取り除かなければ、私たちの政治的任務に向うことも、担うことも難しい。今の態勢では、私たちの映画製作は詩学から政治学へと強く転向すべきだ。
 
その後、大理にて中日タイ三国の若き作者が参加する音の道場が行われた。菊池先生は音の技術の面から「音と出会う」という禅理まで発散する一方、私の考えは清談より力強い現実に転じる。ここより、私は一人ずつ道場の中国人作者たちを考察した―願うことは唯音が政治意識の覚悟を激励できること、我々が作品の演技性を取り除くこと、私たちが社会に貼り付けて呼吸できること、傾聴できることである。私から見ると、音声のテクニックは道の境界に近く、「大音は希声」の出会いの理であるべきであり、民生を救済する広い胸中であるべきである。
 
胸中や抱負を持つことが歴史ゲームの罪のありどころだと深く知っている。元々私は利己的で自己を愛していたが、利己をもって他人を愛している。わが心は野にあり、如何に帰れよう?ただ願うのは、五柳(陶潜)の斜影があるところに歴々と田園があることだけだ。つまり、自分自身がいつ帰れるかを知っているのだ。
 
 
声音的政治
 
半夜站窗边,听到了嘈杂喧闹中悠然鸣唱的八哥声。上海越来越拥挤了。我的故乡,湖南洞庭湖区域,遭遇了历史罕见的干旱。湖泊干涸,稻田龟裂。大面积的天灾和灾民的怨愤声,越来越被阐释为政治伦理的人祸。我们相对自由的网络平台上充斥着愤怒的檄文,他们声嘶力竭地叫喊着西方宪政和普世价值观的医疗功效,颇有大济苍生的抱负。而我,显然地不很喜欢这些叫喊声。我仍然对田园有强烈的渴望。
暧暧远人村,依依墟里烟。狗吠深巷中,鸡鸣桑树巅。
郁郁荒山里,猿声闲且哀。悲风爱静夜,林鸟喜晨开。
陶潜的田园诗,美好的乡村生活,苍秀、静穆,却是在晋宋交际的历史大变局下,在痛惜不已间写作的私生活景象。我们现在的中国乡村社会,已破败不堪,处处在验证那个强烈的叫喊声,处处充斥着身体化的抗争和血腥的暴虐。江河都有干枯的趋势了,夫复归田园?在我这般年纪,虽然不用叫喊大济苍生的豪言,但似乎首先得有担负,然后再思田园。
今年三月,在云南昆明,中国纪录电影作者就“中国经验”展开了专题讨论,大体类似个人作品介绍会,尚谈不上要形成公共的集体意见和意见共同体的可能性。我们要总结的经验,核心应该是制作领域如何切实有效地进入这个苍生不济的社会,深入社会文化根系中,脱离作品的惯习,祛除艺术展示性的表演行为,实实在在地观察和纪录。我们以西方电影节评论语境建构的中国独立电影话语体系,自身充斥着媚俗和矫揉造作的西方化,我们如不祛除干净电影作品的表演性,是难以面对和承当我们的政治任务的。目前态势,我们的电影制作应该由诗学向政治学强势转向。
之后,在大理举办了中日泰青年作者参加的声音道场。菊池先生从声音技艺层面发散至“与声音相会”的禅理,我的思绪则从清谈语境转入我们振聋发聩的社会现实。由此,我一一地考察道场的中国作者们,但愿声音能激励政治意识的觉悟,但愿我们能祛除些作品的表演性,但愿我们能体贴着社会呼吸和倾听。在我看来,声音之技艺,进乎道的高境,应是大音希声的相会之理,应是周济民生的寥廓襟怀。
我深知有襟怀有抱负是历史游戏的罪孽所在。我本自私爱自己,却以自私爱他人,我心在野,何以归来?但愿,五柳斜影处,历历是田园。我如此说,自然知道我何日得归来。
 
毛晨雨,上海,6月2日
 

 

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