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/林るんみ
 
■チームワークを構成するもの
道場で学んだ事は本当に沢山あったが、人との関わり方、チームワークについてが一番大きい。
それについて何を得た?と言われると、「これを得た!」という明確な回答がある訳ではないが、2ヶ月経った今、様々な罪悪感や自己嫌悪の交差の中で、確かに自分はとても意味のある時間を過ごしたという確信がある。
 
人は自分に都合のいい事ばかりを受け取ってしまうから、
私はとてもずるいと思うし、そんな自分こそ嫌いだけれども、
これは感想だから事実を認めて書くと、藤岡さんが最初の日に
話していた言葉の意味を、その後ずっと探っていた。
「近年一人で制作する映画製作者の方が増えてきている。
沢山のそんな作品を見ながら、でも何かがもの足りないと感じる事があった。」…
私はチームワークの事を言っていると解釈した。
一人の世界で完結してしまい、
他者との切磋琢磨によって生まれる様々な気付きに至る前に完成されてしまう。。
「映画は一人ではなく、チームで製作した方が面白くいいものになる」
という正解があるのかな、と推測した。
私はそれに対する確信や実感を持っていなかったけれど、
そして正直なところ今も分からないけれど、
もしもまたチームで何かをやりなさいと言われた時、
道場に行く前よりもうんと強く構えられると思うし、
今後一緒にチームワークをするかも知れない人にも、
ぜひ道場に行ってきて欲しいと思うと思う。
そんな意味でも、これは確かに「道場」だった。
 
■映画製作者
伯超はある意味、大きな刺激でもあった。
私は途中からの参加だったので、到着してすぐ観た伯超の作品に刺激を受けた。
彼の作品に対して色んな意見はあるが、自分とは桁違いに美しい映像を観て、
また過去の劇映画作品を観て、単純に、もっと自分もがんばらなきゃ、と思った。
ただ、自分は全く彼の真似をしたいのか?映画を専門的に勉強して、映画監督になって…
私の答えはそういう事ではなかった。
 
ここのところ、自分の撮った作品の内容において、あまりに専門的になりすぎて、
映像が目的なのではなく、内容が目的になってきている事が嫌で、
このまま映像ではなく内容の専門家になってしまうのではないかと恐れているのだが、
私はきっとそんな感じで、理不尽な現状を変えたいと思う時に、映像を使おうとしているのだと思う。
 
映像作品には終わりがあるけれど、対象である社会に終わりはない。
もっと突き詰めて、じゃあ、どうしたいの?どんな社会にしたいの?と自分に問うた時、
その想像が近ければ近い程答えがあり、遠のくほどに、自分の中から答えが出てこない。
悔しいけれど、今の自分はそんなのでしかなく、そしてそんなくらいの私であるにも関わらず、既に「表現」に手を出してしまっている自分がいる。
それはとても映像に対して失礼であるし、それに気付けた時、自分の軽率さに苛立った。
 
だが確かに、いつか得たいその答えとともに、目の前の理不尽や悲しみを改善させるために、
私は表現し続けるのだろうな、という直感もある。
学者としてだけでもなく、活動家としてだけでもなく、映像を使って伝え、表現する人だ。
それはよくある「映画監督になる!」というのとは性格が違うんじゃないかな、という気がする。
 
映画監督には、しばしば絶大なリーダーシップや強力なカリスマ性が求められるのかも知れない。
だけど自分はそういうものに憧れている訳では決してない。
それにテレビ業界で辛い経験をしてみた自分にとっては、
絶大なリーダーシップにより構成される階層による分業は、そこまで魅力的ではなく思えた。
もしも自分がチームで何かを製作するとしたら、迷わず、
民主的で、各々の意見を汲み取れる方法を探すと思う。
そしてその際にはやはり、チームを構成する個人それぞれが、
チームワークにおいて洗練されていなければならない。
そういった際に、今回したような経験は、ものすごく活きてくるのだと思う。
 
■映像、そして音
何よりも苦しかった事は、言葉で伝えられないという事である。
そして最後まで、ほんの少しを除いては、理解しあえなかった事が今でも悔しい。
帰国してからも、伯超に伝えたい事がたくさんあったが、もう私は伝わらない事を知っていた。
それはある意味、通訳という言語を訳すという便利な機能をさえ超えていて、
各個人の見えている視界と視界との境界を超えて伝えるという、
何とも雲南の山々ほどに壮大で、骨の折れる作業なのだ。
 
一体彼にどのようにして自分の考えを伝え、対話したらいいのか。
ことばではないものでありながら、もっと根本から、伝えられるもの。
まさに言葉を超えて、心へ伝わるものを作り伝えたい。
それは、映像であり、音だった。
音の大切さに、改めて気付かされた。
そうしてみると、映像とは、音とは…。
何か、原点を見てしまったような感覚を得た。
自分的にはとても逆説的だが、伯超がそれを教えてくれたのだ。
 
菊池先生の話と、他のチームの作品は、私の中で、道場が終わってからじわじわと味を出している。
どの作品を観ても、音を聴くようになった。
そして意図を考える。
こんな世界があったのかと、気付かずに観ていた事が信じられなかったし、
それは気付かないほど自然に加えられているという事実でもあり、やはりこれからも学ぶ事が多い。
何か秘密兵器を手にしたような気持ちで、もっともっと、
自分の作品に対して貪欲になりたいと感じている。
この「音」との出会いに、本当に感謝している。
 
■ありがとうとごめんなさい
チームワークに苦しむという事は、自分自身の嫌な所に苦しむという事だと強く感じた。
相手を配慮するからこそ、そして責めるからこそ、それをする自分自身の未熟さをまず突きつけられる。
この道場の中で、本当に多く自分の幼くて嫌いなところと直面させられ、これまでにない程に苦しんだ。
だから、迷惑をかけてしまったチームの人たちに、本当に申し訳ない気持ちがいっぱいある。
意図どおりの行動ができなかった事でスタッフの方たちにはいつでも申し訳なくて恥ずかしいし、うまく感想やコミュニケーションを返せなかったりせっかくの機会にうすっぺらい話しか出来なかった他の参加者の方たちにも罪悪感が残る。そして伝えたい情熱を当初十分に受け取れなかった菊池先生への申し訳ない気持ちは、文字にしてしまえば軽々しいが、それでも書き留めておきたい。
 
多くの人に迷惑をかけてしまうのと引き換えに、私は少し成長させて頂いたのだと思う。
こうして人は、迷惑をかけあいながら成長するのか、と思った。
でもそれなら、早く歳をとってしまってもっと上手に生きられる状態になりたいと思った。
私達はなんて、大人になった気になっていて、それなのにこんなに未熟なのだろう。
 
道場の意図と合っているか分からないけれど、私はこの道場の存在にとても意義を感じる。
素晴らしい映画を製作する人には、人として素敵な人であってほしい。
道場は少なくとも、確実に人としての成長の場でもあるという事を信じずには居られない。
 
 

 

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