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2011年「雲之南」ドキュメンタリー道場について
/鬼叔中 
 
人と出会うことは縁だと信じている。より深く言えば、人とお会いできるのは決していわれのないものではない。
自分が何故「雲之南」ドキュメンタリー道場に参加することになったか、それもよくわからないことだ。
司会者の藤岡朝子さんのお話によると、それはアジアのドキュメンタリー作者たちにとって、お互いに交流しあい、稽古、水準を高めるチャンスだった。
毛晨雨の語録によると、映画についての集まりはなるべく酒を酌み交わし、心を異郷に馳せ、清談のようなものにすることだ。
私の理解では、道場というのは仏教の集団禅修のような修行行為の一つだ。あるいは一種のリラックスだ。たとえお酒を飲みながら徹夜しても。
 

我々は菊池信之先生の講座を通じて、サウンドが映像にもう一つの可能性を与えられることを改めて認識した。それは最大な受益だと思う。我々の慌しく終わった宿題が先生を喜ばせることができなかったですけれども。
実を言えば、菊池先生の真面目と厳しさが我々の後輩たちに一種の怖い印象を残した。最後の日に蒼山から戻ったあとの夕食の間、先生がお酒を勧めてくださって、韓さんがとても躍動があるとおっしゃったとき、やっと皆をおお笑わせた。
道場についてはまたいろいろな記憶の欠片がある。
まず、ドキュメンタリーの作品から話させてもらいたい。詩の頑固な態度で映画を評価してごめんなさい。
タイのYinさんが田舎の生活を離れた一人の女の子を記録した。それは恐らくYin自身の姿だと思う。水田に戻って追い掛けているシーンがより美しく撮影される可能性がある。
タイのKeさんの政治関係の作品には強い実験性が含められている。
日本の石川多摩川さんの四枚の手紙と大理で書いた五枚目の手紙が彼のフイルム質感と一緒に我々を深く感動させてくれた。
家に帰って早川由美子さんの作品を見て、彼女の映画手法に大変驚いた。
川部良太が立ち退きの記憶についての解読も独特なものだ。
骆仪さんの『自梳』にはテレビ用ドキュメンタリーの手法が適当に用いられた。作品の終わりに、老人ホームの中で、秋風落葉を吹く映像は作品の詩的雰囲気をよく露呈した。
第一夜、作品を見ているところ、蒋骅さん突然酸欠の状態におちてしまったことは皆にびっくりさせた。蒋骅さんの作品には「ヌーヴェル・ヴァーグ」の風格がよく見える。
邓伯超さんがデビューする時、風土題材に関心をもつのは甚だ有難いと思う。
作品自体について、その場であなたは游神の撮影中、人間と神様が共に楽しんでいて、非自然力が出そうになった時のシーンは、その目でどういう風にとらえますかと質問をした。べつに彼を困らせるつもりではなかったんだけど。
邓さんは懐疑的だと答えた。
私はすぐ失望してしまった:あなたの疑いも疑わしいなあ!
客家風土に専念している記録者として、私はそのような神秘的風土事件に関心をもつだけでなく、畏敬の念もいっぱいだ。伯超さんの表現手法には軽々しく同意しかねる。例えば、彼の編集風格は飛び跳ねているし、クローズアップシーンも近すぎて真に迫っていて息が詰まりそうだ。個人的に交流している時、彼はいつもこっそりと笑った。伯超さんは自信満々の若者だ。彼のフモール、例えば「that’s over」「Japan sister」などがその時の大理道場に数多くの喜びを与えてくれた。
また、凌美の涙、木室の溜息、冷静な冯艳、自律した晨雨、勤勉な砂青、丛峰の上戸、季丹の?、朝子の寛容さ?、思成の優しさ、慎重な菊池先生、楽天家の若井、調和の取れてる和渊、沈黙な晓波、崔のサービス、知恵に富んだ惠源、いたずら好きな颖彦、哀愁な水怪、叉叉のいたずら、易学钟の博学、馬渕轍の記録、行方不明になった関南、吕宾のこっそりとした笑、アイデアのある卢斌、向华の精巧、馬渕愛の繊細、郭净先生の欠席…
もし誰かを見過ごしたら申し訳ございませんが。二文字で道場の参加者たちに対する印象を一人ずつまとめるのは本当に下手だ。自分さえそのようなまとめに満足できない。
時間があれば道場についてのショートフイルムを編集したい。そしてそのショートフイルムを通じて、皆を出場させ、改めて私の不合格なまとめを解釈してほしい。
 
2011-5-23  日本語訳:裘胜斌

 

 

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